二代目が繋ぎ、三代目が見出した生業
米鶴farmさんの畑と田んぼ、味噌づくりの作業場があるのは、大槌町沢山の下野地区。
自らの田んぼで作ったお米を伝統的な製法で麹に加工し、地域に伝わる昔ながらの手法で一つ一つ手づくりする味噌は、時代を超えて愛されるふるさとの味。
過酷な仕込みの風景の中、大豆が香る湯気の向こうに、家族の歴史と思いがありました。

厳寒期に大豆と竈と向き合う
10時間にも渡る仕込み
冬。大槌町の寒さが一番厳しい2月から3月にかけて、米鶴farmでは毎年、味噌の仕込みを行います。
「さ、入って入って。ちょうど豆もいい感じだよ」。
取材に伺ったのは午前10時頃。味噌づくりを担う上野昭子さんと上野千鶴さんが出迎えてくれました。
作業場には湯気が立ち込め、豆の煮えるいい匂いが満ちています。材料の大豆は、粒が大きいことが特徴である岩手県遠野産のナンブシロメ。煮えたてを一粒食べさせてもらうと、舌でふわっと潰れるやわらかさ。口の中にほんのりとした甘みと、豆のうま味が広がります。

地元大槌の麹店で加工した
自家田のあきたこまちの米麹
地域の常連さんたちから“上野さん家の味噌”と長く親しまれてきた米鶴farmの味噌は、豆と麹の割合が10対10の十割味噌。
味の決め手となる麹は、大槌町内のごとう商店さんのもの。大正時代に創業し、東日本大震災から復活を果たした麹屋さんです。米鶴farmの田んぼで育てた「あきたこまち」を、伝統的な製法で米麹に加工してもらっています。ごとう商店さんでは4日を掛けて麹を仕込むので米鶴farmに麹が届くのも4日に一度。この間、味噌の仕込みも同じペースで行われるといいます。
大槌の水と風で育んだお米を使い、地元の麹と昔ながらの手法で仕上げる味噌づくりは、昭子さんと千鶴さんが受け継ぎ、守り続けるこだわりです。

二人の連携から生まれる手造り味噌
昭子さんが豆を釜から揚げ、千鶴さんがマシンでミンチ状に。テキパキとした連携プレーで作業が進んでいきます。
豆と麹と塩を一樽ごとに大きなバッドに入れ、身体を屈めながら、全身を使って力いっぱい混ぜ合わせていく大変な作業。熟練の手さばきで次々と作業を進める昭子さんのペースに、千鶴さんも必死に食らいつきます。
「何より、足腰と体力を使います。慣れてはいても、しんどいです」。息を切らしながら話す千鶴さん。「さあ、がんばれ!もうちょっとだ!」と、昭子さんの元気な声が響きます。

仕込みの始まりは深夜2時
20分置きに窯の火に向かう
ここから遡る事8時間前。仕込みは、辺りがすっかり寝静まった深夜2時に始まっています。
竈に火を入れ、1時間ほどかけて大豆と水の入った大きな釜を煮立たせます。
「最初に入れる水の量が“ミソ”だよ。何リットルって言われても分からないけど、長年の勘だね」と、昭子さん。
煮立ったら、20分置きを目安に火加減を調整していきます。作業場の温度と湿度はどんどん上がり、まるでサウナのよう。時折、作業場の隣にあるプレハブ小屋の炬燵で仮眠をとりながらの過酷な一夜です。
豆の煮え具合を確かめつつ、強火から弱火へ……。そして早朝6時を迎える頃、豆はふつふつ言い始めます。火を落とし、遠赤外線でじんわり蒸すこと数時間。すっかり太陽が昇ったところで、ようやく大豆が煮上がるのです。
先の冬、千鶴さんは初めて、味噌づくりの師匠である昭子さんの手を借りずに泊りがけの仕込みに挑戦しました。
「薪の準備と火の管理が特に大変。夫と力を合わせて、何とか乗り切ることができました」とほほ笑む千鶴さん。
昭子さんは「上手にできていたよ」と目を細めました。そんな二人の姿を誰よりも近くで見守ってきたのが、いまだ熱さの残る煉瓦の竈と、どっしり鎮座する三斗釜です。

三代続く味噌の始まりは
初代である芳江さんから
昭子さんが味噌づくりと出会ったのは、結婚後、義理のお母さんである芳江さんを手伝い始めたことがきっかけでした。
当時の大槌町には、味噌を作って販売する家が数軒あり、町民たちは好みに合う種類や風味の味噌を買い求めていたそうです。
「自分の家で食べるために作り始めて、最初はおすそ分けや物々交換みたいな形だった。知り合いに頼まれて作るようになると、口コミでだんだんお客さんが増えていった。『やっぱり、上野さん家の味噌じゃなきゃ』と、今でも長く贔屓にしてもらっていて……。ありがたいね」。昭子さんは懐かしそうに話してくれました。

心の火を絶やさず
東日本大震災から再スタート
芳江さんから学んだ昔ながらの味噌づくりを、今に伝える昭子さん。しかし受け継いだ釜は、東日本大震災で建物とともに流失。程なくして瓦礫の中から見つかりましたが、塩水に浸ったせいか穴が開いてしまっていました。それでも、昭子さんの心に灯った火は消えませんでした。「もう一度、この場所で、味噌づくりを始めるんだ」――。
やがてご縁が繋がり、味噌づくりをやっていた人から釜を譲ってもらうことができました。小さな小屋を建て、震災の瓦礫を燃料に、“上野さん家の味噌”は再スタートを切ったのです。
しかし今度は、竈を作り直してくれる業者さんが見つかりません。
岩手県内を方々探しまわっていたとき、たまたま訪れた盛岡で煉瓦屋さんの看板が目に飛び込んできました。藁にも縋る思いで電話をかけてみると、偶然にも店主の奥さんが大槌町の出身で「ぜひ応援させてほしい」と、特別に請け負ってくれることに。
町内の旅館に泊まりながら作業し、2週間ほどで立派な煉瓦の竈が完成しました。
「初めて新しい竈に火を入れたときは、本当に嬉しかった」と当時を振り返る昭子さん。それを見届けるかのように、2012(平成23)年、芳江さんは亡くなりました。

二代目から三代目へ
受け継がれる味噌づくり
現在の作業場へと建て替えたのは、2023(令和5)年のこと。
決め手となったのは、息子の貴大さんのお嫁さんとして家族になり、10年近く苦楽を共にしてきた千鶴さんが自然と口にした「味噌づくりを一緒にやりたい」という言葉です。
これまではお得意様に向けての生産が中心でしたが、より現在の衛生基準に沿った環境で味噌づくりを行えるようになり、産直での販売にも漕ぎつけました。
大槌町で手づくり味噌の生産・販売を続けているのは、今では米鶴farmだけ。初代である芳江さんから、二代目の昭子さんへ。そして、三代目の千鶴さんへ――。“上野さん家の味噌”は今、受け継がれようとしています。




保育園の仕事から転身し
農業の道へ
千鶴さんが昭子さんの作った味噌を初めて食べたのは、結婚後のこと。その絶妙な塩味と豆の風味、米麹のポクッとした歯触りに「こんなにおいしい味噌があるんだ!」と感動したそうです。「まさか、自分が農業や味噌づくりをやることになるなんて、考えてもいませんでした」。
夫の貴大さんとはもともと幼馴染で、千鶴さんは上野家によく遊びに行っていたのだとか。昭子さんと千鶴さんは顔を見合わせ、「こうして一緒に味噌をつくる日がくるなんて思わなかったよ」と照れくさそうに笑い合いました。
以前は、お子さんの通う保育園で給食の仕事に携わっていた千鶴さんですが、味噌の仕込みや農作業を手伝ううち「自分の手で一から作る楽しさと、その奥深さにハマっていった」と言います。貴大さんの後押しや昭子さんのサポートを受け、3年前に農家への転身を決意。農地探しからスタートし、町役場からの紹介で農林水産省の認定農業者制度も活用しました。

自然を相手にする仕事の
おもしろさと難しさ
千鶴さんが農家として初めて一人で取り組んだのが、ピーマン栽培です。地元の先輩から「ピーマン、おもしろいよ」と言われ、軽い気持ちでのチャレンジでしたが、思いがけない豊作にびっくり。収穫に追われる日々に確かな手ごたえを感じたそうです。
しかし、農家2年目の2024(令和6)年は、大雨の影響で畑の水はけが悪く、思うような収穫は得られませんでした。「途中までは順調に育っていた。全国的に不作だったからこそ、しっかり育てて出荷し、地域の人に食べてもらいたかった」と悔しさを滲ませます。先輩農家として切り花やホウレンソウなどを手掛けている昭子さんから言われた「畑も田んぼも、味噌だって、みんな生き物だからね」という言葉を噛み締め、千鶴さんは今日も、畑と味噌と、向き合い続けています。

仕込みを終えた味噌は
1年2か月ほどかけて熟成
味噌の仕込みもいよいよ大詰め。豆と麹と塩を混ぜ込む作業が終わると、重さを量りながら味噌樽に詰めていきます。その裏では、昭子さんが着々と洗い物を進めていました。
身長ほどもある長い木の棒は、釜の中の豆を混ぜるときに使用するもの。すっかり角が丸くなり、深い風合いが歴史を感じさせます。これらの道具たちもまた、釜と一緒に譲り受けたのだそうです。「この木蓋もいい色でしょ。少しひしゃげてきちゃったけど、前の家で何十年も使われてきたんだと思うと、昔の道具って長持ちするんだねぇ」と、昭子さんはにっこり。
やがて、大槌町のお昼の防災無線である「ひょっこりひょうたん島」のお馴染みのメロディーが野山に響き渡る頃。やっとこの日の仕込みが終わりを迎えました。
どっと疲れが押し寄せる中、昭子さんと千鶴さんの顔は達成感に満ちていました。
今日仕込んだ味噌が商品として店頭に並ぶのは、1年2か月ほど先。7月の土用には、天地返しを行います。味噌たちは保管庫でゆっくりと発酵し、熟成され、静かにその時を待ちます。

夫婦の夢をのせ
羽ばたく「米鶴farm」
貴大さん・千鶴さんご夫婦の夢は「一緒に農業を続けていくこと」。千鶴さんは「珍しい野菜や果物も作ってみたい。いつか、大槌でシャインマスカットを作りたいです」と、目を輝かせました。
貴大さんは建設会社を営む傍ら、家業である農業にも取り組み、2024(令和6)年から大槌町の酒米研究会にも所属しています。長く地域の酒米づくりを牽引してきた大先輩から田んぼと技術を受け継ぎ、岩手県の酒造好適米である「吟ぎんが」を生産。貴大さんが丹精込めて育てたお米は、お隣・釜石市の酒造メーカーである浜千鳥さんの手によって地酒へと生まれ変わり、各地のお酒好きたちを今日も唸らせています。
米鶴farmという名前は、そんな夫婦二人の未来を見据えた名前でもあります。背中を押したのは、もちろん昭子さん。
「千鶴ちゃんが『味噌づくりを一緒にやりたい』と言ってくれたから、“上野さん家の味噌”は全国の皆さんにお届けできる立派な商品になった。いずれ代が変わっても続けていくために『何かブランド名みたいなものがあったほうがいいんでない?』って話してたんです」。
“米”の字は、昔ながらの米麹味噌と、受け継いだ酒米づくりから。“鶴”の字は、千鶴さんの名前から取り、千年生きると言われる鶴のように、永く続く生業を目指す思いと願いを込めました。

技と味を受け継ぎながら
思い描く未来
2025(令和7)年3月、大槌町の文化交流センターおしゃっちで行われた特産品開発事業合同発表会に参加した米鶴farm。試食として味噌にきゅうりを添えて振舞い、その絶妙な塩味と食感に、来場者から多くの「おいしい」という声が寄せられました。
しかし、千鶴さんはまだ満足していません。「もっとたくさんの人に食べてもらうには、これまでとは別の視点も必要になるかもしれない。例えば、塩の種類を変えるとか。まずはお母さん(昭子さん)の味をしっかり受け継いで、いつか自分なりに挑戦してみたいです」。
新たな決意を語る千鶴さんの瞳には、小さな火が燃えています。あの日、瓦礫の中で芳江さんの釜を見つけた昭子さんの心に灯っていた火もまた、味噌の味とともに、千鶴さんへと受け継がれていきます。

米鶴farm
Maitsuru farm
仕込みの際の仮眠に使っているプレハブ小屋にもおじゃまし、炬燵を囲んでお味噌汁をごちそうになりました。「出汁も具も無くてごめんね」と昭子さんは言いますが、とんでもない。味噌のうま味がダイレクトに体に染み渡るこの“ストレート”こそ、最高の贅沢です。
- 米鶴farm
- 〒028-1131 岩手県上閉伊郡大槌町大槌24-4-2
- TEL 090-4555-5021